私の年齢は138億歳、あなたの年齢も138億歳、これから生まれてくるものも、これまであったものも皆今は138億歳、皆同じく世界の終わりまで年をとり続ける、私が見ている世界とこれまであったものが見ている世界、これから生まれてくるものが見ている世界は違う、同じ世界であるのに世界の感じ方は無限と無との差ほど開きがある、微小なもの、私たち、私たちの死後の無の状態、世界と同一化した状態では世界の感じ方が違う、今は時間があるが、ない状態もある、同じ世界の中で消滅の時まで無有無の状態を繰り返す、有は無が消滅しないと生まれない、無は有が消滅しないと生まれない、つまり無と有は対でありそれぞれ、それぞれなくして存在しない、人は有から無への過程
つまり言いたかったのは人にとって45億年は一瞬でありうること、人が人として感じる45億年は人が無に還ると一瞬でありうるということ、人はもともと宇宙であり138億年前に生まれていたが意識が生まれたのが数十年前であり意識が死ぬのが数十年後であるということでその後もこの世界とともにあるが意識がないため何十億年経とうが一瞬と同じ、人は抵抗がないとときは感じない、苦痛でないのだから、時が経っていようが経っていまいが何も感じないだろう、流れていてもいいのだし流れていなくてもいい、そういう状態というのは人には考えられないが意識がないため無である、しかしいつか無が形と取り出す時がいつかくる、その時が意識の芽生えでありその意識は無から生まれたものでありどんな形を取るのかは何十億年の無の間に何があったかによって世界が作られ意識化するまでは気付くこともないし無限に永い時間が経過していることすら意識がないと一瞬と同じで何も感じないことは時間がなく、今何十億という時間を想像できるのは一瞬を何十億年という時間と感じているにすぎない、時間は意識がなせるわざであり、何十億というのは立場により何十億にも一瞬にでもなりうる
45億年前がどのような世界だったか疑問に思う人は少ないだろう、それはそんな遠い昔が自分に関係あるとはおもえないから、それが一瞬前は45億年前だったと聞くとどうだろう、そんなことあるわけがないと思うだろう、しかし人が生まれたのは45億年前、宇宙が誕生した時と一致するとしたらどうだろう、自分は数十年前に生まれたのでそんなわけはないと思うだろうか、しかし生まれる前のことは覚えていない、生まれる前に時間が流れていなかったとしたら45億年は一瞬だったかもしれない、人はこの世界の誕生とともに生まれこの世界の終わりとともに死ぬといったらどう思うか、自分が死んでも世界は終わりはしないと思うだろうか、しかし人が死んで時が流れなくなったとしたらこの先何十億年、無限に近い時間が流れても一瞬で過ぎるのではないだろうか、人は誰もが宇宙の誕生とともに生まれ、生きる時代は違えても皆同じく宇宙の消滅とともに死ぬとしたら、人は生きている間だけ時間を感じる、無限の中の無に等しい一瞬を何十年、百年と長く感じ、宇宙の誕生と消滅を無限に長い時間と思っている、しかし実際は宇宙の誕生と消滅は自分の誕生と消滅と一致していると知ったら、生まれる前と死んだ後の無限の時間はどうなるのだろうと思うに違いないが実際は生きている時以外は時間は流れず一瞬で何億年でも何十億年でも過ぎ去る、そしてまた生命として生まれるためには一度世界が消滅し再度誕生するのを待たなければならない、無限という一瞬を、人はみな一生で生きるのは一世界で一回のみである、古代人と言われる人も、未来の人間も、微生物や、植物、動物に生まれた生命すべて、古今を問わず一世界の中の一生をどのように過ごすかだけの違いである、生命が誕生するには世界の終焉が必要である、そして世界は誕生と終焉を繰り返していてその時間の長さは生きているときしか感じない一瞬の時間を生きている、宇宙がこの先どのくらい永い間続くのかはわからない、しかしいつか終焉がきたとき誕生もあるのであり感じなければ無に等しい時間であり、死んだ瞬間にすべてを忘れて何十億年後の世界消滅後の世界に誕生しているのかもしれない、生命というのは古今を問わず皆同朋でありともに一宇宙の違う時代を生きた同じ世代である、生命の誕生は宇宙の誕生に芽生え、どこかの時代で意識化し、また宇宙の終わりまで今の宇宙とともにある、時の感覚は失えども
われわれが見ている世界とネズミが見ている世界は同じだろうか、違っていたとしたらわれわれの方が正しい世界を見ているのだろうか、同じものを見て同じところにいるように見えて、そう思っているのはわれわれの方だけでネズミの見ている世界は正しくない世界だろうか、もしわれわれがネズミの立場になればわれわれの方こそ正しい見方をしていると思うのではないか、つまり精神があるところに世界がありそれを正しいと精神が思わせる、なぜなら精神は見ている世界によってできているから、精神が違えば生まれた物質も違う、物質は共有されているように思えるが、精神にそう思わせるのも物質の影響とすれば、精神と物質は分離したもので精神の数だけ物質がありそれらは共有されない、共有されるのは無のみで、知る人は無を分離し、知らない人は無を分離せず無のまま、見る世界は無を内と外に分けたもの物質の存在によって精神があり精神の存在によって物質がある、人は死ぬと物質がなくなる、これは間違ってないのではないだろうか、この世で死の世界を知る人が一人もいないのは精神が物質と分かれたものであるということを意味していないだろうか、生きている内はまだ世界があるのだ、共有するのは無であって、自分が見ている世界は無から作り出されたもの
考える人にとっては有限で考えない人には無限、これは精神と物質が等しいことを意味し全体に対してもいえる、物質は精神が生み出し、精神は物質が生み出す、はたしてわれわれが見ている世界は精神が作り出したものでなかろうか、また物質が精神を生み出しているのではないだろうか、物質と精神は等しく無であったものではないだろうか、物質と精神は互いに生み出され互いに無に還っていく、物質は内に働く力、精神は外に働く力、それらは同じ無に対してすべての点において逆の働きをする、その力の揺らぎが物質と精神が混在する世界を形づくり、ひとは外への働きゆえにうちの働きに触れ、物質はうちの働きゆえに外の働きに世界としてあらわれる、それはすべての点においてであり、その点一つ一つが無から生じた物質と精神の接点であり分断点
人はなぜ同じものを違うものと見なすようになるのか 細胞分裂の仕業か それとも違う何かが細胞分裂を生むのか 人は幼いときはあまり認識を持たない 細胞分裂により成長すると徐々に認識するようになる 細胞分裂のように分かっていく 一つの細胞が分かっていくことにより多くの認識を得て 歳をとり細胞が死滅していくことにより認識が薄らぐ 元々は一つだったものが複数に分かれ いずれまた0に戻る 1はスタートしているのでありいくら複数になろうと0に戻ることは回避できない なぜか 0と1は全く異なるものである 0は無で1は有である 複数も有で0とは違う 同じものが違うものとなったときそれは有であり 有は有であり続ける無とはならない しかし有と無はもともと一つだった 有と無を区別している間が生であり 有と無を区別しないのが死である もともと一つというのは区別しない状態で 区別する状態があるということは 逆に区別しない状態があるということで もともとは一つであったということ 区別する状態と区別しない状態があることは 区別する状態と区別しない状態もあるということ どちらかだけ経験するということはできない 片方が存在するということはもう片方も存在する 存在しないということはすべてが同じということで すべてを内包している無限の存在 0は無限と一つであり0と無限がひとつであれば それは元の状態である 0と無限を分かつとき人は両極の間を生きていて 0と無限が一つであることを理解できない 人は区別するから生きている もともと一つのものを両極と感じる世界で 矛盾を感じながら一つであることを理解できない 自分の世界が消滅する死の時まで 自分が元の状態に戻るまで
人は何かを得た瞬間何かを失っている 物質のことではない それが分かっていても それは免れられない 物質は時間差を生む 同じものが同じものと感じられないのは 生んだ時間差の元による 同じものを異なるものとして感じている時 人は物質世界にいる 物質世界は同じものを同じと感じるまでの時間差 同じものが同じになるために世界がある 自分の世界が終わるとき同じものが同じになる 同じものを違うものに感じるときまた世界が生まれる 同じと見るか違うと見るかがすべて 同じものは認識しないが 違うものは認識する 世界は同じものを違うと認識している間の場所 同じと認識することで世界は終わる 世界とは認識の歪みが元の状態に戻るまでの認識の時間差 認識の時間差に世界があり 世界は認識から生まれる どんなに大きく見える世界でも いつか何も感じなくなるときがくる それは今は忘れてしまっている同一状態への回帰